「おい、千尋ちゃん暫くここに来ないんだって? 体調が悪いらしいじゃないか。早く良くなるといいな。患者さん達もヤマトに会えるの楽しみに待ってるし」患者のマッサージを終えて片付けをしていた里中に先輩の近藤が声をかけてきた。「え? 千尋さん具合悪いんですか!? 誰にその話聞いたんですか!」里中は驚いて近藤に詰め寄る。「お前、聞いてないのか? あ~そっか。千尋ちゃんの代理の人がやってきた時、お前患者さんの対応中だったな。ほら、あの人に聞いたんだよ」近藤の示した先には中島が花を飾っている所だった。「あの人が店長?」「うん、俺よりは年上だろうけど中々美人だよな~。ま、俺の彼女には負けるけどな。何たって笑顔が可愛いし……」里中はそんなのろけ話を上の空で聞いていた。(どうする、今千尋さんの具合の様子をを尋ねてみるか? でも正直に答えてくれるだろうか……)そこまで考えて、里中にある考えが閃いた。****「よし、終わり。うんうん、我ながら完璧な仕事ね」中島は自分が仕上げたフラワーアレンジメントを満足気に眺めた。秋らしく、暖色系の色でまとめてピンポイントに赤や紫の色の花を添えてみた。仕事も終了したので責任者に声をかけて帰ろうとした時に、突然中島は声をかけられた。「すみません。『フロリナ』の方ですよね? 少しよろしいですか?」中島は声をかけてきた青年を見た。(あら、随分若いスタッフね)「はい。何か御用ですか?」「俺、里中って言います。さっき同僚の先輩から千尋さんの体の具合が悪いって聞きました。それで、ちょっと気になる事があって……」(え? 何この男?)突然千尋のことを尋ねてきたので身構えると、里中が慌てて弁明した。「あの、実は1週間程前に千尋さんと駐車場に一緒にいた時に強い視線を感じたんです。その日の夜から毎晩俺の携帯に無言電話がかかってくるようになって、昨夜とうとう相手がしゃべったんですよ。彼女に近寄るなって。だから千尋さんに何かあったんじゃないかと心配になったんです」その言葉を聞いて中島は眉を顰めた。「あなた……失礼ですが、うちの青山とはどのような関係ですか?」「は? 関係?」「彼女と交際してるんですか!?」中島は口調を強めた。「とんでもないですよ! 病院で知り合った、友人関係でもない只の顔見知りですよ」「それじゃ、青山さんはあ
「この書類、新しい契約書になります。よろしくお願いします」「どうもありがとう」契約書を受け取ると中島は帰って行った。(本当は自分でこの契約書を持って千尋さんに会いに行きたかったけど、怯えさせてしまうかもしれない。それよりも俺のやらなくちゃならないのは犯人を見つけ出すことだ。一体どうすればいいんだ……?)具体的な考えはまだ何も浮かんでこなかったが、あまり時間はかけたくない。(取りあえず、共通の知り合いにかまをかけてみるか……?)気持ちを新たに、里中は仕事に戻って行った――**** 休憩時間の合間を縫って、里中はさぐりを入れてみることにした。けれども男性スタッフ全員が妻帯者であったり、彼女を持っていた。しかも全員が里中が尋ねもしないのに、のろけ話をしてくるので話にならない。(参ったな……。ここのスタッフかと思っていたのに空振りだったみたいだ)「……コーヒーでも買って来るか」 自動販売機の前でコーヒーを買おうとしていると背後から声をかけられた。「今日もコーヒー買うのか? 里中」振り向くと、そこにはオペレーターの長井が立っていた。「そうか、今日も入れ替え日だったのか」(そう言えば長井もここに出入りしている人間だから、千尋さんの顔を知ってるかもしれないな)長井の顔をじ~っと見た。「な、何だよ。男に見つめられる趣味は無いぞ」「なあ、長井……」「ん? 何だ?」「お前彼女いる?」「いきなり何言い出すんだよ。まあ、正直に言うと現在募集中かな」「ふ~ん。そうか」(長井は彼女がいない。可能性はあるな……。でもストーカーするタイプには見えないけどな)「突然どうしたんだよ? そういうお前はどうなんだ? 彼女いるのか?」「そんなのいねーよ。ま、今は仕事で精一杯だからな」(本当は千尋さんが俺の彼女になってくれたらなー)里中はお金を入れて自販機の缶コーヒーのボタンを押した。ガコン!出て来たコーヒーを取り出す。「それじゃ俺もう仕事に戻るわ。じゃあな」手をヒラヒラ振り、里中は缶コーヒーを持って職場に戻って行った――****ーー17時「お疲れさまでしたー」退勤時間になり、里中は帰ろうとすると野口に声をかけられた。「里中、『フロリナ』に行くんだろう?」「いえ、行くのやめにしました。今日代理で来た方に書類渡しましたから」「そうなの
フードを被った男がシャッターの下りた<フロリナ>の前に立っていた。警察もあの女も邪魔だ……。彼女から何とか引き離さなければ…。**** 警察官による定期的なパトロール、そして中島が一緒に家に居てくれる為、千尋は以前よりも穏やかに過ごせるようになっていた。毎日ポストに自分の隠し撮りされた写真や手紙が投函されていることは中島から聞いていたが、目に触れさせずに警察に提出してくれている。中島には感謝してもしきれないので千尋はお礼を兼ねて、毎日腕を振るって料理を作っていた。「店長、今日はホワイトソースのチキングラタンにオニオンスープ、それにミモザサラダのフレンチドレッシング和えですよ」「すご~い! まるでレストランのディナーみたい!!」中島は目をキラキラさせて大喜びしている。2人の賑やかな食卓の足元ではヤマトが尻尾を振りながら餌を食べていた。「そんな、大げさですよ。本当に店長には感謝してるんです。周囲には警察の人が巡回してくれているし、店長も家に泊まり込んでくれていますから。私とヤマトだけだったら怖くて家にいられませんよ。どうぞ、食べて下さい」中島は熱々のグラタンを口に運んだ。「美味しい! こんなにおいしいグラタン初めて食べるわ!!」「良かった~。お口に合ったみたいで」「そう言えば、今日病院に行った時に里中さんていう人に会ったのよ。ひょっとしてストーカー相手を突き止められるかもって言ってたわ」「え? 本当ですか!?」「ええ。彼の所には毎晩無言電話がかかっていたそうよ。彼が言うには自分のことも青山さんのことも知っている人間が犯人じゃないかって言ってたわ」「私と里中さんを知ってる人物……?」千尋には全く心当たりが無かった。「うん、だから犯人が見つかるのも時間の問題かもよ?」「それならいいんですけど……」「大丈夫だってば! 全て解決したら彼も誘ってお酒飲みに行きましょ?」「はい!」(良かった、青山さん。少し元気が出たみたいで)この後、2人はいつも以上に会話が弾み、楽しい食事の時間を過ごすことが出来たのであった。****――21時過ぎ2人人で食事の後片付けをしていた時に突然「ピンポーン」と玄関のチャイムが鳴った。「え? だ、誰?」千尋はビクリとなった。「大丈夫よ、青山さん。私が玄関の様子を見てくるから絶対出ちゃ駄目よ
中島と警察官がパトカーで店まで出かけた後、残った警察官は千尋に言い聞かせる。「いいですか? 戸締りをしっかりして一歩も家から出ないようにして下さい。私が外で待機していますので安心して下さい」「はい、ありがとうございます」千尋は警察官が門の外へ出ると、鍵をしっかりかけたが身体の震えが止まらない、そこへヤマトがやってきた。「ああ、ヤマト」千尋はヤマトをしっかり抱きしめた。「私を守ってね……」ヤマトは黙って頷く。その時――ガチャーンッ!!遠くで何かガラスのようなものが割れる音が聞こえて悲鳴があがった。バタバタバタと走り去っていく音が聞こえ……やがて音は遠ざかり、辺りはまた静けさを取り戻した。「な、何!?」千尋は飛び上がり、耳を澄ましたが何も聞こえない。5分程経過した時に、玄関の方でガチャガチャと音が聞こえた。「――!」千尋は恐怖で身体が動かない。「ウウ~ッ!」ヤマトが立ち上がり、今まで一度も聞いたことがないような低い唸り声をあげて玄関の方を睨み付けている。「ヤ、ヤマト……?」—―ガチャッ……玄関の開く音が聞こえた。「!!」千尋は思わず叫びそうになり、両手で口を押えた。ギシッギシッ……廊下を進んでくる足音が聞こえる。(いや……誰……? 怖い……!!)その時。「ガウッ!!」ヤマトが鋭く吠え、廊下を飛び出した。「うわっ!」直後、はっきりと聞きなれない男の叫び声が聞こえた。「くそっ! は、離せ!!」ヤマトが侵入者と格闘しているようだが千尋は恐怖で動けない。バタバタバタッ!!「ワン! ワン! ワン! ワンッ!!」走って逃げる足音とヤマトの吠える声が完全に聞こえなくなるまで、千尋は一歩も動くことが出来ずにいた。やがて静かになったところで千尋は我に返った。「ヤマト……?」玄関へ向かうと、ドアは開け放され、ヤマトの姿も侵入者の姿も見えなかった。「ヤマト……? ヤマト!!」玄関を飛び出すと、慌てて走ってきた警察官と鉢合わせした。「一体、何があったんですか!?」千尋は警察官に詰め寄った。「それが、近所で石で窓ガラスを割られる事件が発生したんですよ。急いで様子を見に行って話を聞き終わった後、こちらへ戻ってきたばかりなんですが……この様子だと何かあったようですね……」警察官は千尋のただならぬ様子に気付いた。
「青山さん……?」中嶋は千尋の家に戻ると、俯いて床に座り込んでいる千尋を見つけた。「店長……。ヤマトが……」中島は何も言わずにギュッと千尋を抱きしめた。既にヤマトが千尋を守った事も聞かされているのだ。「大丈夫、ヤマトが見つかるのを信じて待ちましょう?」千尋は黙って頷いた。しかし、この夜ヤマトが戻ってくることは無かった――**** —―翌朝里中は出勤時、守衛室をチラリと覗いて見たが話しかけてきた男は素知らぬ顔で座っている。(……妙な男だな……)病院のロッカールームで先程の守衛の男のことを思い出してみた。(おかしい……何故昨夜は無言電話がかかってこなかったんだ……?)ぼんやり考えていると、ポンと肩を叩かれた。「おはよう、里中」 振り向くと先輩の近藤だった。「なあ、知ってるか? 昨夜<フロリナ>でボヤ騒ぎがあったって」「え!? 何ですか? その話は!?」里中は嫌な予感がした。「さっき俺も聞いたんだが、知り合いがあの花屋の近くに住んでいて夜の9時過ぎ……だったか? シャッターの前に段ボール箱が置かれて燃やされたらしいぞ? でも大した被害は無かったらしいけどな」「そんな……」(ひょっとすると昨夜俺に無言電話がかかってこなかったのは、あのストーカーが燃やしたのか? 恨みとかで……? でもそれだけじゃ説明がつかない……)「おい、どうした? 里中? 遅刻するぞ?」近藤が声をかけてきた。「あ、いえ。何でもないです!」里中は慌ててユニフォームに着替え始めた—— リハビリステーションに行くと何故か騒がしい。見ると主任が数名の男達に取り囲まれているのである。「あれ? 一体何があったんだ?」一緒にやってきた近藤は不思議そうに眺める。その時、主任がこちらを見た。「里中! ちょっとこっちへ来てくれ!」「はい、何でしょう?」呼ばれて行くと、50代位の男性に声をかけられた。「里中さんですね? 我々はこういう者です」取り出したのは警察手帳である。「!」「少しお話したいことがあるので、お時間いただけますか?」里中は主任の顔を見ると、黙って頷かれた。「はい……大丈夫です」「ありがとう。ではついてきてください」 病院の外に連れ出されると入り口にはパトカーが止まっていた。「あなたを案内したい場所があります」パトカーに
「そうですか。やはりあなたはあの男をご存じなんですね」一旦、病室を出て同じ病棟の談話室へ移動すると一番年長の警察官が里中に声をかけてきた。「はい。俺が勤務している病院の自動販売機のオペレーターです」「あの男とは友人関係だったんですか?」「はい、友人です」「しかし、彼の方はそう思っていなかった可能性がありますね」警察官は何故か意味深なセリフを吐いた。「あの……一体それはどういう意味なんですか?」すると今まで2人の会話を聞いていた若い警察官が口を挟んできた。「君は何も気づいていなかったのか?」はっきり言わない警察官にしびれを切らした里中はイライラした調子で声を上げた。「さっきから一体何が言いたいんですか? はっきり言って下さいよ!」「ああ、これは失礼」若い警察官を制すると再び年配の警察官が謝ってきた。「この男はねえ、昨夜9時半頃に雑居ビルが立ち並ぶ歩道橋の下で頭部から血を流して倒れている所を発見されたんですよ」ゴホンと咳払いして警察官は続けた。「幸い、身元の確認はすぐに出来ました。携帯電話を所持していましたからね。それでちょっと面白いことが分かりましてね」「面白いこと?」里中は眉をひそめた。「彼の発信履歴を見ると、ここ最近ある一定の時間に何度も何度もあなたに電話をかけていることが分かったんですよ」「え?」一瞬何を言われているのか分からなかった。「あなたのところに最近毎晩のように電話がかかってきていませんでしたか?」「!」(まさか……あの無言電話の相手が……!?)親友だと思っていた長井がストーカーだったとは思いたくなかった。しかし現実は残酷だ。「この女性に見覚えありませんか?」警察官は1枚のスナップ写真を見せてきた。そこには隠し撮りしたかと思われる千尋の姿が映されている。「千……尋さん……」「やはりあなたは彼女を知ってるんですね。この写真、発見時に長井が所持していたんですよ。いや、実は我々は最近こちらの女性からストーカー被害の相談を受けていたんですよ。それで彼女の自宅付近を毎晩パトロールしていましてね」里中は黙って警察官の話を聞いている。「昨夜は2名体制でパトロールをしていたのですが、ボヤ騒ぎで二手に分かれて行動したんですよ。1名はこの女性の自宅付近に待機していたんですが、近所の家の窓ガラスが割られる悪戯があ
「ほう。あなた、犬の名前までご存じだったんですね」「勿論です! ヤマトはうちのリハビリステーションのセラピードッグだったんですよ。すごく賢くて大人しい犬なんです。だからそんな行動に出たなんて、正直驚いていますよ!」「……余程、ご主人を慕っていたんでしょうねえ」「はい、そう思います」里中は唇を噛んだ。「我々は警察官を1名病院に残してこれから長井の住むアパートに行ってきますよ。ご協力感謝いたします。病院まで送りますよ」警察官たちは立ち上がった。「あの……」里中はまだ椅子に座ったまま俯いた。「何です?」先程まで話をしていた警察官が返事をした。「長井は……またストーカー行為を続けるでしょうか?」「ああ、それは無いと思いますよ」こともなげに言う警察官に里中は不思議に思った。「どうして言い切れるんですか?」「……恐らく落下した時に第5頸椎を損傷したのでしょうね。もう一生車椅子生活になったらしいです」「え? 長井はもう二度と歩けない身体になってしまったんですか?!」あまりにも衝撃的な話しばかり続き、里中は眩暈がしてきた。「まあ、自業自得ってところもありますね。それに運が良かったじゃないですか? 下手したら死んでたかもしれないところを助かったのですから」若い警察官が口を挟んできた。あまりの言いように里中は頭に血が上ってしまった。「なんだってそんな言い方するんだ!! お前、それでも警察官か!?」気が付けばその警察官の胸倉を掴んでいた。「ぐっ……」胸倉を掴まれた警察官は苦しそうに呻いた。「まあまあ、落ち着いてくださいよ。今の言い方は確かにこちらが悪かったです。許してやってください、まだ年若い男なので」年配の警察官に止められて、里中は手を離した。「すみません……つい乱暴な真似をしてしまって」若い警察官はまだ苦しそうに喘いでいる。「……長井の目が覚めたら連絡貰う事は出来ますか? これでもまだ俺はアイツのことを親友だと思っているので」「ええ、分かりました」その後、里中はパトカーに乗せられ再び山手総合病院へと戻った――**** 千尋は中島から今日は仕事を休むように言われて自宅のリビングにいた。目の前には女性警察官が2名いる。1人はショートヘアの若い女性、もう一人はメガネをかけた30代位の女性警察官である。「この男性に見覚えがあ
「え……? ええ!?」千尋は改めて写真を見直した。浅黒い肌にがっちりした体形はスポーツマンタイプでとてもストーカー行為をするような人間には見えない。「もう安心して下さい。二度とこの男にあなたはストーカー行為をされる事はありませんから」若い警察官は笑顔で言った。「あの? それはどういう意味ですか?」「昨夜、あなたが飼っていた犬に追いかけられた長井はここから約2km程離れた場所にある歩道橋の下で頭から血を流して倒れていました。不審な点があったので警察病院に搬送されましたけど、頸椎を損傷してしまったらしく、もう二度と歩くことは出来なくなったそうです」メガネの警察官が代わりに答えた。「その話……本当ですか? この人が私をストーカーしていて、ケガで二度と歩けなくなったって言うのも……?」「ええ。後は本人の目が覚めてから事情徴収に入ります。まだ眠っている状態なので」「あの、それでヤマト……私の犬はどうなったのか分かりますか? 昨夜から帰って来ないんです」「申し訳ございません。長井が犬に追われていた情報はありますが、長井が発見された後の犬の目撃情報は無いんです」「そう……ですか……」千尋がうなだれると、若い警察官が慌てたように言った。「あの、私も犬を探すの手伝いますので元気出してくださいね!」「ちょ、ちょっと……」慌てたようにメガネの警察官が止めようとしている。「大丈夫! 警察官は善良な市民の味方です!!」どうやらこの女性警察官は熱意にあふれていたようである。 女性警察官たちが帰ると、千尋は本当にこの家に一人きりになってしまった。窓の外を眺めてもヤマトの姿は見えない。ストーカーの恐怖は去ったけれども、ヤマトのいない寂しさには耐えられない。「ヤマト……何処に行ってしまったの? 早く帰って来てよ……」千尋は誰もいない部屋でカーテンに顔をうずめて一人泣き続けていた——**** その頃、警察病院ではちょっとした騒ぎになっていた。「おい、長井が目を覚ましたって?」先程里中と話をしていた年配の警察官が病室に向かって足早に歩いている。「はい、警部補。警察病院から連絡が入ったんですよ。長井の目が覚めたけど、ちょと困ったことがあったと言って」若い警察官も必死で後を追いながら説明する。「何だ、困ったことと言うのは? お前も長井に会ったんだろう
「あ……」渚は咄嗟に身を翻して逃げようとした。「おい! 待てよ!」茶髪の若い男はあっという間に渚の腕を掴んで捕まえた。「何で逃げようとするんだよ。半年以上も行方をくらましておいて。俺が今までどれ位お前のこと探し回ったのか分かってるのか? スマホも繋がらない、アパートに行っても解約されていたし」渚は俯いたまま黙っている。茶髪の男はため息をついた。「おい、ちょっと顔かせよ」そして渚の腕を掴んだまま歩き出した。**** 渚と茶髪の男はファミレスの椅子に向かい合って座っていた。冷えて生ぬるくなったコーヒーが2つテーブルに置かれている。渚はテーブルの下で両手を握りしめて俯いていた。男は腕組みをして渚を睨んだ。「おい、渚。何とか言えよ。さっきから黙ってばかりで。お前、もしかして俺のこと忘れちまったのか?いや、そんなはずないよな? 俺を見て逃げ出そうとしたんだから」それでも渚は黙っている。「う~ん。どうもさっきから変な感じがするんだよな……。俺の知ってる以前のお前と今のお前、全く雰囲気が違って見えるんだが……。お前、渚に変装した偽物か?」「偽物じゃ……ないよ」ようやく渚は口を開いた。「偽物じゃ無いって言うなら俺の名前言えるはずだ。俺の名前は?」「橘……祐樹」「言えるなら、渚で間違いないかもな。だけどな! 絶対お前おかしいぞ? そんなキャラじゃ無かっただろう? なんかビクビクしてるし、本来のお前は喧嘩っ早くて血の気の多い男だったじゃないか。目つきだって凄く悪かったぞ?」「実は僕は……一部記憶が無くなってしまったんだ。どうして記憶を無くしたのかも覚えてなくて」声を振り絞るように渚は言った。「はああ? 僕だあ!? やめてくれよ! お前から僕なんて言葉を聞くと鳥肌が立ってくる!」祐樹は両肩を押さえて震えた。「ごめん……」「だ~から! そんな言葉遣いするんじゃねえ!」祐樹はドン! とテーブルを叩いた。「もう、この話し方が身について今更変えられないよ……」「あ~っ! もういい! 大体お前記憶が欠けてるんだもんな。仕方が無いか」祐樹はため息をついた。「あれ? そういやお前、あの事件がきっかけで仕事辞めたんだよな? それで部屋も引き払ったのか?」「う、うん。まあそんなところかな?」「じゃあ、今は何処に住んでるんだよ?」「知り合
運ばれてきた料理を3人で食べると千尋は帰って行った。「今日は悪かったな? 今度は二人きりで食事出来るといいな?」職場に戻りながら近藤が里中に声をかける。「何言ってるんすか? 先輩が気を利かせてあの場から居なくなってしまえば二人で食事出来たのに」「ひっでえなあ、それが先輩に対する口の利き方かあ?」わざとお道化たように話す近藤を里中は苦笑いしながら見ていた。**** その後――千尋と渚は約束通り、二人が休みの日は色々な場所へと出掛けた。動物園、映画、遊園地、ドライブ……渚が行ってみたいと言っていたありとあらゆる場所へと足を運んだ。渚は始終楽し気にしていたが、何故か寂しげに見える姿が増えてきた。けれど千尋はそのことには一切触れなかった。(きっと時がたてば、渚君の方から話してくれるはず……)そう信じて疑わなかったのである。 ――2月のある日のこと「ねえ、渚君。今日はお休みでしょう? 私は仕事だけど何か予定あるの?」千尋が朝食を食べながら尋ねた。「え? うううん。特には無いよ。しいて言えば……家電製品でも見てこようかなと思ってる」「何か買いたい家電製品あるの?」「うん、ブレンダーかミキサーでもあれば便利かなって。あ、でも買うかどうかはまだ未定だけどね」「そうなんだ。良いのが見つかるといいね」「そうだね……」渚は曖昧に笑った。 仕事のない日はいつもそうしているように渚は千尋を店の前まで見送った。「それじゃ、仕事頑張ってね。今夜のメニュー楽しみにしておいてね」「ありがとう、それじゃまた後でね」千尋は笑顔で手を振ると通用口から店へ入っていく。その姿を見送ると渚は駅へ向かった——**** バスを乗り継ぎ、渚は市内一大きな総合病院の前に立っていた。千尋が編んでくれたマフラーで口元を隠し、帽子を目深に被ると渚は病院の中へと入って行った。渚は入院病棟に来ていた。辺りを見渡し、人がいないのを見計らうと個室の病室へと入って行く。その個室には若い男性が眠り続けていた。ベッドの柵に取り付けられているネーム札には年齢も名前も記入がされていない。「……」拳を握りしめ、黙ってその患者を見下ろしていると、こちらに向かって歩いてくる足音が聞こえた。「!」慌ててロッカールームに入って、隠れる。けれど足音は遠ざかって行った。入り口に耳を付け
それから暫くして千尋がリハビリステーションにやってきた。野口と新年の挨拶を交わしている。丁度手が空いていた里中は主任が去り、千尋が一人になると近づいた。「おはよう、千尋さん」「あ、おはようございます。里中さん、新年明けましておめでとうございます」千尋は頭を下げた。「あ、そうだったね。明けましておめでとう」里中も頭を下げた。「あの……千尋さん」「はい、何でしょう?」「実はこれなんだけど……」里中はポケットから紙袋を取り出した。「?」「俺、年末年始里帰りしていて千尋さんにお土産を買って来たんだ。もし良かったら受け取ってもらえないかな?」そして千尋に紙袋を手渡した。「私にですか?」里中は黙って頷いた。「今見ても?」「ど、どうぞ」中から出て来たのは色鮮やかなパワーストーンのブレスレットだった。千尋は目を見張った。「うわあ……綺麗。でも、こんな高価なもの頂くわけにはいきません」「あ、見た目は高そうに見えるけど、そんなんじゃないから。遠慮しないで受け取ってよ。ただのお土産なんだから」ハハハ……と笑うが、本当は気軽に渡せるような金額では無かった。(く~っ。今月は食費削らないとな……。だけど千尋さんの喜ぶ姿を見れたからいいか)「里中さん。お礼に今日のお昼ご飯、ここのレストランでご馳走させて下さい」「い、いや、何言ってるんっすか! 女の人に男がご馳走してもらなんて変ですって!」「でも、それじゃ私の気が済まないんです」千尋は食い下がる。(でも昼飯代浮くし、何より千尋さんと一緒に食べる事が出来るなら……)「それじゃ……よろしく」里中は照れくさそうに笑った——****「――で、何で先輩までここにいる訳ですか?」里中は面白くなさそうに近藤を見た。「まあまあ、そう言うなって。俺は先にここに来ていた、そしてお前たちがやってきた」近藤は得意げに言う。「はあ」里中は興味なさげに返事をする。「そして生憎、満席。けれど、俺が座っているテーブルは偶然にも2つ席が空いていた。そこで、二人をこの席に呼んだと言う訳だ」「ありがとうございます、近藤さんのお陰で席を確保する事が出来ました」千尋は嬉しそうに礼を述べる。「チエッ」里中は誰にも聞こえない様に小さな声で舌打ちをした。折角二人で食事が出来ると思ったのに、これでは何の意味も無
翌朝――渚と千尋は向かい合って朝食を食べていた。今朝の渚はいつもと全く変わりが無い様子だった。(一体、昨夜はなんだったのかな……?)「何? 千尋。さっきから僕のこと見てるけど」千尋の視線が気になったのか渚が話しかけてきた。「あ、何でもないの」「そう? 今朝の千尋はいつもと違う感じがするからさ」「あの……ね、渚君」「何?」「昨夜のことなんだけど……」「うん。あ、ごめんね。結局千尋に片付けさせちゃって」「すぐ眠れたの?」「勿論、日本酒を飲んだからかな~昨夜は眠たくてすぐに寝ちゃったよ」(やっぱり覚えていないんだ)千尋は心の中で思った。「え? 昨夜僕何かやっちゃった? 何も覚えていないんだけど……」「大丈夫、別に何も無かったから。ただ、今日から仕事初めだったから良く眠れたかなって思って」「千尋はよく寝れた?」「うん、寝たよ」本当は昨夜のことが気になって、あまり眠れなかったが伏せておいた。「ねえ、千尋」食後のコーヒーを飲みながら渚が尋ねてきた。「何?」「これからはさ、二人の休みが合う時は色々な場所へ一緒に出掛けたいんだ。駄目……かな?」「駄目なわけないじゃない。うん、一緒に出掛けよう」「良かった~。ありがとう」渚は子供の様に無邪気に笑みを浮かべた。そんな様子を千尋は黙って見つめていた――****「おはようございます!」千尋は元気よく出勤してきた。店には早番の中島と原が既に出勤している。「おはようございます。青山さん」ほうきで店の外掃除をしていた原が挨拶を返した。「おはよう、青山さん」切り花の世話をしていた中島も挨拶してくる。「青山さん、新年早々だけど今日は山手総合病院に行く日よね。道路の渋滞情報が出ていたから早めに出たほうがいいわよ」「ありがとうございます、それじゃ早めに準備して行きますね」****山手総合病院――患者のマッサージを終えた里中がポケットから小さな紙袋を取り出して、ため息をついた。「お? 里中、それ一体何だ?」近藤が目ざとく見つけ、背後から声をかけて来た。「べ、別に何でもないですよ」里中は顔を赤らめながら急いでポケットにしまおうとするが、近藤に奪われてしまう。「か、返してくださいよ!」「へえ~山梨県の土産の袋か。……そういや、お前の実家って山梨だったよな? 年末里帰りし
渚が仕込んだ味噌味の海鮮鍋は最高の味だった。「やっぱり渚君が作った料理は最高だね。流石調理師免許持ってるだけのことはあるね」千尋は鍋料理を笑顔で食べている。「ありがとう。千尋が選んだ日本酒も美味しいね~」「フッフッフッ。この日本酒はね、東北地方にある蔵元が作った日本酒なの。フルーティーで、とても日本酒とは思えない口当たりの良いお酒なんだよ。若い女性の間で大人気なんですって。だからついつい飲み過ぎちゃうんだけど」「ははは……。千尋は本当にお酒が好きなんだね。でも明日から仕事なんだからあまり飲み過ぎない方がいいよ?」「そうだね、また今度一緒に飲もうね。この先いつでも飲めるんだもの」「この先いつでも……か」一瞬渚の顔に影が差した。「どうしたの?」「ううん、何でもないよ。温かいうちに食べてしまおう?」 ****——食後「ほら、渚君はもう今夜は休んで」「でも片付けは僕がやるよ」「何言ってるの? 今日海で具合が悪くなったでしょう? 私がやるから大丈夫だってば」 食事が済んだあと、片付けをすると言って聞かない渚を千尋は無理に部屋に追いやった。渚は最後まで自分がやると言って聞かなかったが、やはり体調がまだ優れないのか最終的には千尋の言うことを聞いて部屋に戻って行った。「そうだ、どうせなら洗濯もしちゃおう」以前録画しておいたドラマを観ながら千尋は洗濯機を回した。 それから約1時間後、洗濯を干し終えた千尋が自分の部屋へ戻ろうとしたその時。「う……うう……」渚が使っている部屋から苦しそうな呻き声が聞こえてきた。「え? 渚君?」(もしかして具合でも悪いのかな?)「渚君、大丈夫?」声をかけてみたが返事は無い。それでも苦しそうな渚の声が聞こえる。「渚君、入るね」千尋は引き戸を開けた。中へ入ると渚はベッドの上で酷くうなされている。「渚君! しっかりして!」千尋は渚の枕元に行くと声をかけた。渚は苦しそうに寝言を言っている。「い……嫌だ……。助けて……」「渚君!」千尋は必死で渚を揺さぶった。その時である。「ハアッ……ハアッ……!」渚が突然目を開けて千尋を見た。そして一瞬泣きそうに顔を歪めるとベッドに横たわったまま千尋を腕の中に抱き込んだ。「キャアッ!」千尋は渚の身体の上に乗るような形になってしまった。「な、渚君……?
念の為にと持参していたシートに並んで座りながら二人は海を見ていた。真冬の海なので、人の姿はない。真っ青な水平線の海は青空の下、良く映えた。「渚君、冬の海って何だか綺麗に見えない?」風に吹かれた髪の毛を押さえながら千尋は渚に尋ねた。「そうだね。人もいないからゴミも無いし。だから余計に綺麗なんだろうね」「渚君の両親て、海が好きな人だったんじゃない? だって『渚』って名前付ける位なんだから」「さあ、どうなんだろう? 僕にはよく分からなくて……」渚は曖昧に返事をしたが、顔が強張っている。「渚君? どうしたの?」「え? 何が?」「何だか顔色が悪いみたいに見えるけど……?」「そんな事、無いよ……」渚は笑みを浮かべたが顔は青ざめている。「もしかして具合が悪いの? もう帰ろうか?」「うん……ごめんね。千尋」渚は何とか立ち上がったが足元がふらついている。「く……」額には汗が滲んでいた。「ねえ、渚君。無理しないで、少しここで休んでいこうよ?」すると渚は子供の様に頭を振った。「嫌だ……。この場所から離れたい……」「……分かった。それじゃ私に掴まって?」千尋は渚の大きな身体を何とか支えながら海から遠ざかっていく内に少しずつ渚の顔色が良くなってきた。****「大丈夫?」渚を休ませる為に近くのファストフード店に入ると千尋は心配して尋ねた。「ごめんね……千尋。折角二人で楽しもうと思ってたのに」「渚君……。ひょっとして……」海が怖いの? 千尋はそう尋ねたかったが、言葉を飲み込んだ。ようやく体調が良くなったのに、余計な話をして再び渚の体調を悪くさせるにはいけない。「何?」コーヒーの入った紙コップを手に渚は返事をした。「うううん、何でもない。コーヒー飲んだら帰りましょ?」「そうだね。明日からお互い仕事だしね。今夜の食事は何にしようかな……」「今夜も夜は冷えそうだから、お鍋なんてどう?」「それはいいねー。千尋はどんな鍋が好き?」「鍋料理は何でも好きだよ? 渚君は?」「それじゃ、今夜は海鮮鍋にしよう。帰りに駅前のスーパーで材料買って帰らないとね」 その後二人は再び電車を乗り継ぎ、地元スーパーで海鮮鍋の材料を買い込んで帰路に着いた——**** 二人で並んで台所に立ち、鍋の準備をしている。そんな渚を千尋は横目で見てみると、鼻
クリスマスも終わり、新しい年が始まった。千尋と渚は年末は家中の大掃除をし、新年は初詣に二人で出かけた後はお互い本を読んだり、カードやボードゲームで遊んだりと、好きなことをしてのんびり過ごした。そして休みの最終日――「ねえ、千尋。明日二人で一緒に出掛けない?」渚が外出を提案してきた。「うん、いいね。でも出掛けるって何処へ行くの?」「前に僕が千尋と行ってみたい場所を色々話したの、覚えてる?」「うん。覚えてるよ」「それじゃ、水族館に行ってみたいって話したことは?」「勿論、ちゃんと覚えてる」「早速行ってみようよ!」**** 電車を何本か乗り継ぎ、1時間以上時間をかけて二人は水族館にやってきた。この水族館は海沿いに建てられ、眺めも最高な場所にある。館内に入ると、中は子供の姿は殆ど見えず、若い男女のペアばかりだ。皆腕を組んだり、手を繋いでいる。「「……」」千尋と渚は顔を見合わせた。「手……繋ごうか?」渚が手を差し伸べてきたので千尋は遠慮がちに手を繋ぐと、渚は指を絡めてしっかりと握りしめてきた。千尋は驚いて渚の顔を見上げたが、渚は横を向いて目を合わせない。けれどその耳は赤く染まっている。なので千尋もキュッと握り返すと、渚がこちらを向いた。「行こうか? 渚君」二人で薄暗い館内を歩きはじめた。巨大な水槽が照らされて色鮮やかな熱帯魚の泳ぐ姿やエイが優雅に泳ぐ姿、大きな白熊や可愛らしいラッコ・ペンギン……それらを二人で見て回る。 最後にイルカやアシカのショーを観覧したところで、海沿いのカフェで二人でランチを食べることにした。千尋はクラブサンドセット、渚はハンバーガーのランチプレートをそれぞれ注文をした。 「楽しかった? 千尋」「うん、とっても楽しかった。水族館なんてもう随分昔に行ったきりだったから」「誰と一緒に行ったの?」「う~ん。高校生の時付き合ってた人だったかな? でもその人とはあまり長くは続かなかったんだけどね」「千尋、付き合ってた人いたの?」渚は驚いたように尋ねてきた。「う、うん……。そうだけど?」「そっかー。残念だなあ」「何が残念なの?」「僕が千尋の初めてのデート相手じゃなくて」「デート……? デート!?」(そっか、これって一応デートに入るんだ。ちっとも意識してなかった)「あれ? そう思ってたのは僕だけだっ
「千尋……怪我は無い?」「う、うん。大丈夫。」「良かった……」渚は千尋を思い切り強く抱きしめると安堵の息を吐いた。「な、渚君……もう大丈夫だから。は、離して……」「え?」その時、初めて渚は千尋を抱きしめているのに気が付いたのか、顔を真っ赤に染めて慌てて千尋を離した。「ご、ごめん……。千尋が心配になって、つい……」「い……いいよ。そんなこと気にしなくて……あ! 大変! 鍋が噴きこぼれそうだよ!」「うわ! ほんとだ!」渚は慌ててガス台に戻り、火を弱めて料理に続きを始めた。その姿を見ていた千尋の心臓はドキドキいってる。(びっくりした……。まだ渚君の匂いが残ってる気がする……) パスタも出来上がり、テーブルの上には他にサラダとチキンが並べられた。ケーキは食後にと冷蔵庫に冷やしてある。椅子に座ろうとすると、渚が話しかけてきた。「そうだ! いいものがあるんだ」そう言うと席を立ち、大きな紙袋を持って戻ってきた。「なあに? それ?」「ほら、小さいけどクリスマスツリー買って来たよ」それはテーブルの上の乗りそうな小さなクリスマスツリーだった。「わあ。可愛い」千尋が喜ぶと更に渚は言った。「まだあるよ。はい、クリスマスプレゼント。…気に入るかなぁ?」渚は小さなラッピングされた袋を手渡した。「え? 私に?」千尋が中を開けてみるとそれは可愛らしい犬のデザインのネックレスだった。「犬の……」「うん、千尋は犬が好きなんだよね? だから探して買ってみたんだ。つけてあげるよ」渚は千尋の背後にまわり、ネックレスをつけると鏡を見せた。「良く似合ってるよ、千尋。すごく綺麗だよ」熱を帯びた渚の話し方に胸の鼓動が高鳴る。「あ、ありがとう」何とか、それだけを必死に言った。「実は私からもプレゼントがあるの」千尋は足元に置いておいた紙袋を渚に手渡した。「開けていいの?」渚の問いに千尋は黙って頷いた。「これは……」そこに入っていたのはダークグリーンのマフラーだった。「もしかして手編み?」「お店の休憩中に毎日、ちょっとずつ……ね。気に入ってくれるといいけど」渚はマフラーを巻き付けると笑顔を向けた。「勿論だよ! 僕の一生の宝物だよ」「一生だなんて、大げさだよ」「僕がどれほど今幸せか…言葉では言い表せない位だよ。ありがとう、千尋」その後、
「うわ……ほんとだ。俺とタメかよ。なら敬語なんていらないな?」里中は少しだけ口元に笑みを浮かべた。「うん……? それにしても何だかここに写ってる写真と、今のお前雰囲気が違う気がするな」顔の作りは全く同じだが、目の前にいる渚は終始笑顔で人懐こい印象がある。一方免許証に写る渚の顔はどことなく目つきが鋭く、やさぐれた印象を与える。「僕は写真に写ると、少しイメージが変わるんだよね」渚は免許証をひったくるように里中の手から取り上げた。「それじゃ、そろそろ僕は帰るね。冷蔵庫にヨーグルトとイオン飲料を入れておいたから良かったら飲んで。あ、それから冷凍食品も幾つか買ってあるよ」「そんなに買ってきてくれたのか。悪い、今金を……」「あーそんなの大丈夫だから。お金は近藤さんから貰ってあるから。本当、いい人だよね。近藤さんて」「ああ…お前もな」「いいんだよ、気にしないで。あ、それから今夜のクリスマスパーティーも中止にしたよ」「え? どうして?」里中は首を傾げた。「千尋が言ったんだ。折角のクリスマスパーティ、里中さんが一人出席できないのは気の毒だから今回はパーティーに参加しないって言ったら、その流れで中止になったんだよ」「! そんな、俺一人のせいで……。ほんと、俺って駄目だな。お前にも変な嫉妬心なんか持って……」「里中さんはすごくいい人だと僕は思うよ。職場での評判すごくいいんだってね。お年寄りの患者さん達をすごく大切にしてくれてるって。だから……僕も思ったんだ。この先、僕にもしものことがあったら……千尋のことよろしくね」渚の顔に影が落ちる。「お前、またそんなこと言って……。一体どういう意味なんだよ」「別に、言葉通りの意味だよ。僕はずっと千尋の側にいる事は出来ないんだ。でも、この話は絶対に千尋にはしないでね? 心配させたくないから」「だから、どうして千尋さんの側にずっといられないって言うんだ?」納得できず、里中は追及する。(こいつ……何て顔してるんだよ。でもこれじゃ、無理に聞けないな)「分かったよ。俺もこれ以上聞かない、約束する」すると、渚の顔にほっとした表情が浮かんだ。「ありがとう、じゃあ帰るよ。ちゃんと休まないと風邪治らないからね?」「ああ、分かってるよ。サンキューな」渚は玄関のドアを開けて出て行った。里中は渚が出て行くのを見届けると再